カムアウトしたい、けれど、きっと言わない方がいいこともある

母親の勘というものは、鋭い。

同性のパートナーがいることを勘づかれて、母親を混乱させてしまった日から、早1年近くが経ちました。

勘づかれた後、今でも、パートナーの話は触れることはできません。

その人にもらったものも、身に着けることができていません。

 

「お父さんには言わないで」

言外にそのような気持ちが含まれており、もちろん父親には同性のパートナーの件はいっていません。

 

私の実家では、パートナーについて、口にすることも、存在を感じさせるものを身に着けることも、一切できません。

 

一方、パートナーの家族の方々には、私の存在を認めて頂いており、時々お食事にお誘いいただいたりしております。

パートナーと二人してインフルエンザに倒れたときは、水やおかゆなど、救援物資が届けられたり、私の社会人系音楽サークルの発表会などには、パートナーのおばあちゃまが聴きにきてくださったりと、柔らかに受け入れてくださってます。

 

そのようなパートナーの家族の方々に、きちんとご挨拶したい。

私だけではなく、家族としてもご挨拶したい。

二人で歩んでいること、これからも歩んでいくことを、見守ってほしい。

二人それぞれが産まれ、育まれた、家族という存在。

 

両家のつながりなんて、古い考え方だし、個人の自由と選択という考えからみると、大人二人が誰と一緒になろうが、勝手にしてもいいのだけれど、それでも、自分の家族に対しても、相手の家族へも、感謝とそしてこれからも見守っていただきたいことを伝えられたらとは思います。

 

でも、私の家族にとっては、娘が同性のパートナーがいるなんて、混乱を招くだけだし、私の祖母や、他親戚にも不快な思いをさせるかもしれない。

そのことで、母親が祖母等にとても神経を使うかもしれない。

 

きっと言わないことで守られる幸せもあるかもしれないと思うと、やはり踏み出せないのです。

 

気をつけてねと言われることへの、複雑な気持ち

「気をつけてね」

と言われること。

これはよくあることで、割と当たり前に思っている。

「気をつけて帰ってね」

「気をつけていってらっしゃい」

などなど、どこか移動するときなどの枕詞としてよく使われるのが「気をつけてね」

 

その言葉で、自分は大事にされているんだなあと思える。

自分自身が、大切に扱うべきものとして、相手に認識されてるんだと感じる。

 

だから気をつけてねを言われることは、良いことだと思う。

でも、「気をつける」ように言われる、その裏には「気をつける」べき事情があるから。

そう思うと「気をつけてね」という思いやりの言葉は、受け取るのは嬉しい反面、その言葉が必要な事情が少なくなったらいいなと思う。

 

とはいえ、みんな誰かにとっては大切な人。

それぞれにとっても、自分自身は大切。

だからきっと私は、いろんな気をつけるべき事情がなくなっても「気をつけて」って言うのかな。

もっと他の言葉があったらいいな。

思い切ってSNSをアプリを消してみた

自分で断ち切った方がいいと思ったSNSアプリを消した。

Twitterとかfacebookとか。

もし見たかったら、ブラウザからサイトにアクセスして、ログインしたらいい話。

アプリがあったら、永遠かと思えるくらい、いつでも、いつまででもタイムラインを見ていられる。

なので、だいたい以下の条件でSNS見ないことにした。

iphoneのアプリを使わない。(Twitterfacebook

・見たかったら、いちいちブラウザからログインして見る事。

 

いちいちログインして、アプリよりもちょっと不便なブラウザ版でタイムラインを追うこと。

めんどくさがり屋の私には、これが一番効いたようで、通勤時間30分間や就寝前の30分間など、1日あたり約1時間使っていたSNSの時間が減りました。

 

それに加えて、mineoユーザーなのですが、「エココース」のトライアルに申し込んで、ますますデータ通信を自分にとって億劫なものにしてみました。

mineoの「エココース」がなんでデータ通信を億劫にするかというと、通信料が多くなる混雑している時間(例:通勤時間とかお昼休み)に、わざとデータ通信速度に制限をかけるから。

その代わり、基本料金が安くなるから、SNS断ちもできるし、通信費を節約できるし、割とお得な感じでSNS断ちにチャレンジしています。

mineo.jp

※エココースのトライアルは2018年7月25日に受付終了してます。1か月間だけ適用されるコースなので、正規のプランとして登場してもらえたら嬉しいな。

 

とはいえ、テレビもそんな見てないので、ニュースとか見るのにやっぱり1日に1回くらいはtwitterしてしまうね。なんだかんだいって面白い情報もあるし。

SNSとの付き合い方を再考してます。

ひりひりとした読みたくない気持ちと書きたい気持ち。

しょうじき、人のブログなんて読みたくない。

人の書いた文章なんて、天気予報以外読みたくない。

 

自分だって、それなりにちゃんと書きたい。

そんなひりひりとした読みたくない気持ちと、書きたい気持ち。

 

それでも、

この人は何を書いている。

どんなことを強みにしている。

どんな魅力がある。

 

そんなことを気にして、読んでしまって、ああ、やはり書く人、書ける人はすごいなと、自分の小ささを見せつけられる。

 

もっと、もっと。

そう駆り立てられるから、読みたくないけど、ひりひりと胸が焼けるような気持ちが、誰かが書いたものを読ませる。

 

書けるのか、書けているのか、手ごたえを得ることは一向にまだないけれども、それでも、胸の奥から迫り上がるため息を押し殺せないから、書く。

 

一人でもいい、誰かが、きっと読む。

この前提があるから、ブログなどを書いてしまうのだと思う。

この文は、おおよそ400字詰め原稿一枚。まだまだこれからね。

移動時間はインプットよりもアウトプットに適しているという話をきいた。

出張の多い、バリバリなビジネスマンの記事だったか、なんだったかで、「新幹線に乗っている間は、たくさんアイデアが浮かぶから、原稿が進む」と書いてあったのをぼんやりと覚えている。

たしかこの記事だったかなあ。

一応ソース示しておこうと思って、貼ってみます。

https://www.sankeibiz.jp/econome/news/171029/ecd1710291300001-n1.htm

 

記事は去年のものなので、記憶にぼやっと残ったくらい。

確かに、移動中、例えば電車に乗っているときだけでなく、歩いているときなんかでも、ふわっと想いというか、言葉が出てくるなぁと実感と記事内容が重なったから、覚えていたのだと思う。

 

そんなわけで、いまこうしてスマホから打ち込んでいるのも、移動中だから。

特に何をアウトプットしようと思ったのではないけど、なんか書きたいと思ったから。話題がない、が話題です。

平凡な生活で、早くいうとコンテンツ力が低い。

平和な生活が好きなんです。

だから、コンテンツは平凡。

きっと、それは食べ飽きないけど、あれが食べたいという積極的な気持ちを引き起こすものではない。

それは困ったなあと思うことはあります。

 

それでも、新幹線に乗るときは、手作りサンドイッチとドリップコーヒーを手にする幸せ。

平凡ですけど、心地よいです。

そんな、話題がない、が話題でした。

そうだ年賀状を書こう(※書けたら書く、しらんけど)

昔から、特定の誰かを友達だと思う事が得意ではない。

誰かから、遊びに誘ってもらったり、手紙をもらったり、

そうすると、「この子はきっと”友達”って思ってもいいんだ。」って認識ができる。

でもそれは、その子と物理的に距離が離れたり、こちらから何も手紙を書かなかったりすると、文字通り疎遠となって、その子はまた別に友達ができて、日常が出来上がっているのを見ると、こちらから何かするのもおこがましい気がして、少しずつ記憶からも遠ざかってしまう。

 

自分から、この子は友達だって思うことが苦手。

だって向こうはそう思ってないかもしれないから。

だから、自分から関わろうとか、誘おうとか思うのが苦手なのかもしれない。

 

部活とか委員会だとか

目的がはっきりしている人の集まりのほうが楽だった。

クラスの人は、授業科目は同じとは言え、それぞれ向いている方向が違う人が、たまたま同じ空間いるだけ。

クラスにいる、その空間でいかに傷つくことなく過ごせるかが主題だった。

だから、部活っていう目的がひとつの集まりは楽で、居心地はよかった。

この人たちを友達っていうよりか、戦友のような同志のような感覚。

その中でもやっぱり、疎遠になっている人は多々いる。

卒業とか進学とか就職とか転居とか結婚とかいろいろあるもんね。

 

Twitterとかで知り合う共通の趣味の集まりは、なんか好きなものがふわっと共通するので、いいなって思う。

いつでも連絡が取れるようで、それでもやっぱり連絡が減ったり。

さいきんあんまりリプライ送ってないし、受け取ってないし、タイムラインにいるんだけど、発言してないから実質透明人間。

 

だから、ごくたまに理由なくシステマチックにやりとりができる、年賀状ってよいものなのではと、ふと考える。

それでも、自分がこの人に年賀状を送ってもいいのだろうかって、きっと悩むだろうから、Twitterやらfacebookやらで済ませたらいっかと思ってしまう。

しかし、いざ年末となると、Twitterでも普段発言していない自分には、何か友人知人に発信できるコンテンツはあるのかと、やはり少し億劫になってしまい、ただいいねを押してログアウトする羽目になる。

 

そうしてオンラインでもオフラインでも疎遠になってしまったために、つい先日twitterの友人と久しぶりに会ったら「もういないかと思った」と言われました。

改めて伝えておくと

「人との約束がそんなに多くないけど、それでも私は元気です。」

七夕なのに、一人でカフェにいて、それっぽい文章を携帯から直接投稿してみる。

七夕である。

織り姫と彦星は年に一度会える日だが、私はどういうことだか恋人とは別行動で、神田のカフェで一人、のんびりしている。

一人であっても、喫茶店めぐり、カフェめぐり、割と好きな方だ。

というか、待ち合わせまでの時間、一人の時間と、誰かと会う時間を接着してくれる、そんな空間が好きなのかも知れない。

今日は、何となく足を伸ばしてみて、何となくネットで検索したときに見つけたチーズケーキの写真に惹かれて、ふらふらと訪れた。

 

珈琲とチーズケーキ。

苦味と甘み、この正反対だからこそ、成立するこの組み合わせ。

チーズケーキのもったりさを、珈琲が中和してくれる。だから、やめられないのが、このカップリングだ。

迷わず、そして、期待に胸を高鳴らせ、深煎りの珈琲とチーズケーキを注文した。

オーダーされてから、聞こえる豆を挽く音が心地よい。ケトルから注がれた先にある豆の膨らみ。

もう完璧なのでは、と思いながら運ばれてきたチーズケーキは、期待のはるか先だった。

 

表面には、うっすらカラメルが。

断面は絹のような滑らかさ。

チーズケーキの甘みに、カラメルのほろ苦さというエッジがきいて、ケーキとしてのうまさを引き立たせている。

これまで頂いたレアチーズケーキの中で、現在このお店が一番なのではないか。

 

お天気は曇り空。

そんな空模様だけれども、席はだいたい埋まっている、評判のカフェなのだと思う。

まだ2、3席は空いている。

外に人が並ぶようになったら、席を立とうかな。それまでは、もう一杯頂いてもいいかな。

もう時刻は夕方5時であるが、日が沈みそうな気配はまだまだない。

もう一杯。今度は浅煎りのすっきりとした珈琲と一緒に、フィリップ・K・ディックの短編集を読もうかと。

 

めずらしく、はじめて、

謎のエッセイ口調になってる。

ちなみにカフェめぐりに必須と思われる写真は、一枚もないです。

アプリから直接投稿なので、ツイッターの表示うまくできてないかもです。