本とチョコと紅茶と…

家族のことを中心に。

半年以上ぶりの更新。iPhoneを変えて誤字が増える日々。

こんなに更新してないのに、閲覧数が一定あって、驚いています。

どのようなひとが、どのような記事を見ていたのか。

そこはよく分からないけど、ちょっとホッとした気分です。

 

さて、資格試験の勉強や、仕事で、そしてコロナで、色々追われていたなという一年も後半です。

特に今年は、資格試験に時間もお金も使いました。

人事を尽くして、天命を待つばかりです。

その一方で、どんな天命でも、次の動きが取れるように、準備を始めようと思ってます。

なので、今日は来年の手帳を買いました。

2020年から、能率手帳を使ってます。

クリーム色の紙が、渋くて、レトロで、好ましい。

2021年の手帳は、深緑色の表紙。いいね。また来年もたくさんよろしくね。

 

久しぶりに、母の顔を見てます。

ずっとそばにいた方がいいかな。そばにいたいなとは思うけど、それは普段一緒に生活していないから言えることなのかなとか、考えごとがぐるぐるします。

 

iPhone5sだったのを、新しくSEに変えたので、画面が大きい。誤字しがち。そんな日々。

これからは、もうちっと、ブログ更新したいな。

圧倒的にインプットとアウトプットを繰り返したい

友人から、誕生日プレゼントにと、文庫本を3冊贈ってもらった。

その友人との付き合いは、さかのぼれば小学生時代からだけど、誕生日を継続的に祝うようになったのは中学生になってから。

30歳になったので、人生の半分を越えるくらいの年数、お互いにお祝いをし合っているのかな。

お互いを励ましたり、話をじっと聞いたり、聞いてもらったり、そんな積み重ねが今もできていること、すごく幸せに思う。

 

そして今年贈られた3冊の文庫本。

ちゃんと小説を読むのが、もしかしたら、一年以上ぶりかもしれない。

読み始めた時は、久しぶりに歩く道を、そろりそろりと踏み出す感覚になった。足の出し方や、風景の楽しみ方も、合っているのかなとか、変な緊張をする。

 

小説を久しぶりに読んでいる。

いつも、仕事柄、整然とした文章に価値を置いている。一読了解であることが大切とされる世界にいる。

小説に久しぶりに緊張している。

あり得なさそうなこと、社会的に問題になりそうなことが、小説世界で展開されている。

 

少しずつ、頭の筋肉が(そういうのものがあるんだろうか)ほぐされている感覚。

 

有難い時間。ありがとう。

 

タイトルは

仕事でもプライベートでも、インプットとアウトプットを圧倒にしたいと思う気持ちです。

親知らずを抜いたpart2

ちなみにpart1などというタイトルの記事は作成してないです。

私の中で、親知らず抜いたの2回目なのでpart2。

 

前回の親知らず抜歯は電気メスによって切られているという、匂いは感じました。

肉が焼かれているという匂い。

今回は、何となく手順を知っているので、ぼんやりしているまま、何となく終わりました。先生が上手だったのかもね。

 

前回と違うのは、口の片側だけでご飯を食べるのがうまくなったということ。

前は、最初の2日くらいは、ゼリーとかお粥とかしか食べられなかったけど、今回は割と早い段階で、固形食が食べられます。

固形食といえども、どんぶりとか、カレーとか、出汁やスープによって、少し柔らかくなった料理だけど。

 

早く歯茎が回復して、普通に生活したいな。

歯はずっと大事にする。

矯正もして、ちゃんと並べたし。

 

歯と肌は大事にする。

お母さんに小さい頃からめっちゃ言われてるの。

それだけは守ろうと思う。

個人として尊重してほしいところ、考え方とかを許容してほしいところはあって、相容れない部分もあるけど、大事に育てられてきた。

歯と肌は言われた通り大事にしていく。

(ほんの小さな虫歯ができてた※治療済 なんて、一生の秘密です。)

 

日が空いたので、なんとなく思っていることを書き留めておきます。

カムアウトしたい、けれど、きっと言わない方がいいこともある

母親の勘というものは、鋭い。

同性のパートナーがいることを勘づかれて、母親を混乱させてしまった日から、早1年近くが経ちました。

勘づかれた後、今でも、パートナーの話は触れることはできません。

その人にもらったものも、身に着けることができていません。

 

「お父さんには言わないで」

言外にそのような気持ちが含まれており、もちろん父親には同性のパートナーの件はいっていません。

 

私の実家では、パートナーについて、口にすることも、存在を感じさせるものを身に着けることも、一切できません。

 

一方、パートナーの家族の方々には、私の存在を認めて頂いており、時々お食事にお誘いいただいたりしております。

パートナーと二人してインフルエンザに倒れたときは、水やおかゆなど、救援物資が届けられたり、私の社会人系音楽サークルの発表会などには、パートナーのおばあちゃまが聴きにきてくださったりと、柔らかに受け入れてくださってます。

 

そのようなパートナーの家族の方々に、きちんとご挨拶したい。

私だけではなく、家族としてもご挨拶したい。

二人で歩んでいること、これからも歩んでいくことを、見守ってほしい。

二人それぞれが産まれ、育まれた、家族という存在。

 

両家のつながりなんて、古い考え方だし、個人の自由と選択という考えからみると、大人二人が誰と一緒になろうが、勝手にしてもいいのだけれど、それでも、自分の家族に対しても、相手の家族へも、感謝とそしてこれからも見守っていただきたいことを伝えられたらとは思います。

 

でも、私の家族にとっては、娘が同性のパートナーがいるなんて、混乱を招くだけだし、私の祖母や、他親戚にも不快な思いをさせるかもしれない。

そのことで、母親が祖母等にとても神経を使うかもしれない。

 

きっと言わないことで守られる幸せもあるかもしれないと思うと、やはり踏み出せないのです。

 

気をつけてねと言われることへの、複雑な気持ち

「気をつけてね」

と言われること。

これはよくあることで、割と当たり前に思っている。

「気をつけて帰ってね」

「気をつけていってらっしゃい」

などなど、どこか移動するときなどの枕詞としてよく使われるのが「気をつけてね」

 

その言葉で、自分は大事にされているんだなあと思える。

自分自身が、大切に扱うべきものとして、相手に認識されてるんだと感じる。

 

だから気をつけてねを言われることは、良いことだと思う。

でも、「気をつける」ように言われる、その裏には「気をつける」べき事情があるから。

そう思うと「気をつけてね」という思いやりの言葉は、受け取るのは嬉しい反面、その言葉が必要な事情が少なくなったらいいなと思う。

 

とはいえ、みんな誰かにとっては大切な人。

それぞれにとっても、自分自身は大切。

だからきっと私は、いろんな気をつけるべき事情がなくなっても「気をつけて」って言うのかな。

もっと他の言葉があったらいいな。

思い切ってSNSをアプリを消してみた

自分で断ち切った方がいいと思ったSNSアプリを消した。

Twitterとかfacebookとか。

もし見たかったら、ブラウザからサイトにアクセスして、ログインしたらいい話。

アプリがあったら、永遠かと思えるくらい、いつでも、いつまででもタイムラインを見ていられる。

なので、だいたい以下の条件でSNS見ないことにした。

iphoneのアプリを使わない。(Twitterfacebook

・見たかったら、いちいちブラウザからログインして見る事。

 

いちいちログインして、アプリよりもちょっと不便なブラウザ版でタイムラインを追うこと。

めんどくさがり屋の私には、これが一番効いたようで、通勤時間30分間や就寝前の30分間など、1日あたり約1時間使っていたSNSの時間が減りました。

 

それに加えて、mineoユーザーなのですが、「エココース」のトライアルに申し込んで、ますますデータ通信を自分にとって億劫なものにしてみました。

mineoの「エココース」がなんでデータ通信を億劫にするかというと、通信料が多くなる混雑している時間(例:通勤時間とかお昼休み)に、わざとデータ通信速度に制限をかけるから。

その代わり、基本料金が安くなるから、SNS断ちもできるし、通信費を節約できるし、割とお得な感じでSNS断ちにチャレンジしています。

mineo.jp

※エココースのトライアルは2018年7月25日に受付終了してます。1か月間だけ適用されるコースなので、正規のプランとして登場してもらえたら嬉しいな。

 

とはいえ、テレビもそんな見てないので、ニュースとか見るのにやっぱり1日に1回くらいはtwitterしてしまうね。なんだかんだいって面白い情報もあるし。

SNSとの付き合い方を再考してます。

ひりひりとした読みたくない気持ちと書きたい気持ち。

しょうじき、人のブログなんて読みたくない。

人の書いた文章なんて、天気予報以外読みたくない。

 

自分だって、それなりにちゃんと書きたい。

そんなひりひりとした読みたくない気持ちと、書きたい気持ち。

 

それでも、

この人は何を書いている。

どんなことを強みにしている。

どんな魅力がある。

 

そんなことを気にして、読んでしまって、ああ、やはり書く人、書ける人はすごいなと、自分の小ささを見せつけられる。

 

もっと、もっと。

そう駆り立てられるから、読みたくないけど、ひりひりと胸が焼けるような気持ちが、誰かが書いたものを読ませる。

 

書けるのか、書けているのか、手ごたえを得ることは一向にまだないけれども、それでも、胸の奥から迫り上がるため息を押し殺せないから、書く。

 

一人でもいい、誰かが、きっと読む。

この前提があるから、ブログなどを書いてしまうのだと思う。

この文は、おおよそ400字詰め原稿一枚。まだまだこれからね。