本とチョコと紅茶と…

家族のことを中心に。

そうだ年賀状を書こう(※書けたら書く、しらんけど)

昔から、特定の誰かを友達だと思う事が得意ではない。

誰かから、遊びに誘ってもらったり、手紙をもらったり、

そうすると、「この子はきっと”友達”って思ってもいいんだ。」って認識ができる。

でもそれは、その子と物理的に距離が離れたり、こちらから何も手紙を書かなかったりすると、文字通り疎遠となって、その子はまた別に友達ができて、日常が出来上がっているのを見ると、こちらから何かするのもおこがましい気がして、少しずつ記憶からも遠ざかってしまう。

 

自分から、この子は友達だって思うことが苦手。

だって向こうはそう思ってないかもしれないから。

だから、自分から関わろうとか、誘おうとか思うのが苦手なのかもしれない。

 

部活とか委員会だとか

目的がはっきりしている人の集まりのほうが楽だった。

クラスの人は、授業科目は同じとは言え、それぞれ向いている方向が違う人が、たまたま同じ空間いるだけ。

クラスにいる、その空間でいかに傷つくことなく過ごせるかが主題だった。

だから、部活っていう目的がひとつの集まりは楽で、居心地はよかった。

この人たちを友達っていうよりか、戦友のような同志のような感覚。

その中でもやっぱり、疎遠になっている人は多々いる。

卒業とか進学とか就職とか転居とか結婚とかいろいろあるもんね。

 

Twitterとかで知り合う共通の趣味の集まりは、なんか好きなものがふわっと共通するので、いいなって思う。

いつでも連絡が取れるようで、それでもやっぱり連絡が減ったり。

さいきんあんまりリプライ送ってないし、受け取ってないし、タイムラインにいるんだけど、発言してないから実質透明人間。

 

だから、ごくたまに理由なくシステマチックにやりとりができる、年賀状ってよいものなのではと、ふと考える。

それでも、自分がこの人に年賀状を送ってもいいのだろうかって、きっと悩むだろうから、Twitterやらfacebookやらで済ませたらいっかと思ってしまう。

しかし、いざ年末となると、Twitterでも普段発言していない自分には、何か友人知人に発信できるコンテンツはあるのかと、やはり少し億劫になってしまい、ただいいねを押してログアウトする羽目になる。

 

そうしてオンラインでもオフラインでも疎遠になってしまったために、つい先日twitterの友人と久しぶりに会ったら「もういないかと思った」と言われました。

改めて伝えておくと

「人との約束がそんなに多くないけど、それでも私は元気です。」